自己犠牲は本当の思いやりか?
    僕はこれまで、「人に優しく、己に厳しく」という信条のもとに生きてきました。
    周りからも「面倒見がいいね」「優しい人だね」と言われることが多く、自分でも人のために行動できる自分に誇りを感じていました。
    しかしある時、ふとこう感じたんです──
    「僕のこの優しさは、誰かを本当に幸せにできているんだろうか?」
  
自分を蔑ろにする“優しさ”の危うさ
    思い返せば、誰かの笑顔を守るために、自分の気持ちを押し殺すことが当たり前になっていました。
    「自分さえ我慢すれば丸く収まる」「相手が傷つかないなら自分が耐えればいい」──
    そんなふうに考える癖が、いつしか自分を傷つけ、周囲との本当の信頼関係をも歪めていたのです。
  
    感情を抑え込み続けたある日、家族に思わず冷たい態度を取ってしまったことがありました。
    自分でも驚くような言葉が口をついて出てしまい、その瞬間、僕ははっきり気づいたんです。
    「このままじゃ、自分じゃなくなってしまう」と。
  
気づきの始まり──自己肯定感という土台
    それからは、自分の心に耳を澄ませるようになりました。
    「何が辛かったのか」「なぜ言えなかったのか」
    その問いを繰り返すうちに出会った言葉があります。
  
「自己肯定感は、利他の心を支える土台である」
    それはまさに、今までの自分に欠けていたピースでした。
    自分の価値を認め、愛することができなければ、他者を本当に大切にすることはできない。
    どこかで“見返り”を求めてしまったり、無理が蓄積して突然爆発してしまう──
    そんな“歪んだ利他”になってしまうことに、ようやく気づけたんです。
  
「自分を愛する」は甘えじゃない
    かつての僕は、「自分を大切にするなんて甘えだ」と思っていました。
    でも今は違います。
    自分の心の声に耳を傾け、無理をしていないかを確認することは、“責任ある思いやり”だと考えるようになりました。
  
    誰かを守るには、まず自分が満たされていなければならない。
    「思いやりとは、時に厳しさを伴うこともある」
    そう捉えるようになってから、人との関わり方も少しずつ変わっていきました。
  
利他の心を生きるために──僕が選んだ道
    自己肯定感を育てるため、僕は日々の小さな行動を変えていきました。
    朝のウォーキング、家族との対話、そして「心の癖」に気づいたら見つめ直すこと。
    少しずつ、自分に優しくできるようになったことで、人への優しさも無理のないものになってきた気がします。
  
    もちろん今も、「利他の心」を言い訳に自分を蔑ろにしてしまいそうな時があります。
    でもそのたびに、自分にこう問いかけます。
  
「その思いやりは、自分を犠牲にしていないか?」
    自己肯定から始まる、利他の心。
    僕はこれからも、この心を磨き続けながら生きていきます。
  

  
  
  
  

コメント