世の中には、思っている以上に多くのゾンビ映画がある。
ホラーとして、スプラッターとして、ジャンル映画として消費されてきた歴史も長い。
この記事では、ゾンビ映画が肯定する居場所と生き方という感覚を、二つの作品から辿っていく。
僕の中で、いまだにトラウマとして残っているのは、幼い頃に観てしまった『バタリアン』だ。
怖くて、気持ち悪くて、画面から目を逸らしながら泣き喚いた記憶だけが、今もはっきり残っている。
もちろん親となった今、
自分の子どもにあの映画を見せるなんて、到底できないと思う。
——それでも僕は、こっそりゾンビ映画を観ている。
初期のロメロ作品や、『ウォーキング・デッド』シリーズ。
気づけば、止まらなくなるほど見続けてしまう。
なぜか。
それは、ゾンビ映画の多くが、怖さやグロテスクさの奥で、驚くほど誠実に「人間」を描いているからだ。
これから触れる二つの映画にも、ゾンビという存在を通して、
生き方や居場所について、とても身近な距離で考えさせてくれる何かが潜んでいる。
第一章:ゾンビ映画が「居場所」になった瞬間 ——『桐島、部活やめるってよ』
『桐島、部活やめるってよ』に登場するゾンビ映画は、物語を盛り上げるための小道具ではない。
それは、この世界に居場所を見つけられなかった人間の、最後の拠り所として描かれている。
この映画の中心にいるはずの桐島は、最後まで姿を現さない。
代わりに描かれるのは、彼がいなくなったことで浮き彫りになる、学校という閉じた共同体の歪な構造だ。
ヒエラルキー。空気。見えない序列。
その最下層に位置づけられている映画部の生徒たちは、学校の「主流」からは徹底的に遠ざけられている。
彼らに許されている場所は、体育館ではなく、屋上でもなく、校舎の片隅で撮る、低予算のゾンビ映画だけだ。
だが皮肉なことに、ゾンビ映画を撮っている時間だけ、彼らはこの学校に参加している。
誰にも期待されていない。誰からも注目されない。
それでもカメラを回し、ゾンビ(役)として倒れ、起き上がる。
この映画においてゾンビとは、怖がられる存在ではなく、
「ここに居てもいい」と、互いに確認し合うための姿として立ち上がってくる。
「参加できない」という暴力
『桐島、部活やめるってよ』の残酷さは、誰かが露骨に傷つけられる場面にあるわけじゃない。
むしろこの映画は、終始とても静かだ。
誰も怒鳴らない。誰も殴らない。
それでも、はっきりとした線だけが引かれている。
——参加できる側と、最初から参加していないことになっている側。
バレー部、野球部、屋上に集まる生徒たちは、この学校の「現在」を生きている。
一方で映画部の生徒たちは、まるで最初から背景に配置された存在のように扱われる。
ここで重要なのは、彼らが排除されているというより、
「最初から数に入っていない」ことだ。
声を上げる理由すら与えられていない。
不満を言う舞台にも立てない。
その状態は、生きているのに、どこか“死者扱い”に近い。
ゾンビは「反抗」ではなく「自己紹介」
この映画の中で、ゾンビ映画は社会への反抗として描かれてはいない。
彼らは学校を壊そうともしないし、主流の側に食ってかかることもしない。
ただ、自分たちがここにいることを、自分たち同士で確認しているだけだ。
ゾンビ(役)として倒れ、また立ち上がる。
その反復は、世界を変えるための行為ではなく、
自分たちが消えていないことを確かめる儀式に近い。
この瞬間、ゾンビは恐怖の象徴でも、他者を脅かす存在でもない。
——「ここに居る」と名乗るための姿になる。
『桐島』においてゾンビは、希望を与える存在ではない。救済でもない。
ただ、参加できない世界の中で、それでも生きていることを肯定する、最低限の形として置かれている。
第二章:ゾンビが「関係」をつなぎ直す ——『キツツキと雨』
『キツツキと雨』に登場するゾンビ映画もまた、派手さとは無縁の、手作り感に満ちた作品だ。
ただしその手触りは、『桐島』とは少し違う温度を持っている。
舞台は、山に囲まれた静かな村。
人の出入りも少なく、日常はゆっくりと、ほとんど停滞したように流れている。
この村に、ある日突然、ゾンビ映画の撮影隊がやって来る。
最初は噛み合わない。
言葉も、速度も、価値観も違う。
映画を撮る側と、巻き込まれる側。そこには明確な距離がある。
けれどこの映画は、その「距離」を対立として描かない。
代わりに描かれるのは、戸惑いながらも、少しずつ歩み寄っていく時間だ。
ゾンビは「参加の許可」になる
『桐島』でのゾンビが「参加できない世界での最低限の肯定」だったとするなら、
『キツツキと雨』のゾンビは、参加することそのものを、もう一度許可する存在として立ち上がる。
不器用な大人。自信を失った若者。役割を終えたと思い込んでいる人たち。
彼らはゾンビ映画の撮影を通して、「自分はここに居ていいのか」という問いを、今度は他者と共有し始める。
ゾンビ(役)として倒れること。雨の中で泥だらけになること。何度も同じ動きを繰り返すこと。
それらは世界に抗うための行為ではなく、他者と関わり直すためのきっかけになっていく。
閉じた共同体で、肯定の向きが反転する
ここで、二つの映画ははっきりと分かれる。
『桐島』では、閉じた共同体の中で、肯定は内側にだけ向いていた。
——「俺たちは、ここにいる」
一方『キツツキと雨』では、同じように閉じた場所でありながら、肯定が外へと滲み出していく。
——「一緒にやってみようか」
——「もう少し続けてみよう」
ゾンビは、孤立を耐えるための姿から、関係を結び直すための姿へと変わる。
それでも、どちらも無理に前向きすぎない。大きな希望を掲げたりはしない。
ただ、生きていることを、少しだけ肯定する方向へと、そっと背中を押す。
結び:ゾンビが肯定していたもの
『桐島、部活やめるってよ』と『キツツキと雨』は、舞台も、人物も、物語の温度もまったく違う。
それでもこの二本が同じ場所に触れてしまった理由は、ゾンビという存在が、どちらの映画でも「生き方そのもの」を直接肯定していたからだと思う。
ゾンビは本来、排除され、恐れられ、社会から切り離される存在だ。
生きているのか、死んでいるのかも曖昧で、居場所を持たない。
だからこそ、この二本の映画では、ゾンビが“敵”としてではなく、居場所を失った人間の写し身として立ち上がる。
『桐島』においてゾンビは、参加できない世界の中で、それでも「ここにいる」と名乗るための姿だった。
誰にも見られなくても、評価されなくても、生きていることを、最低限、自分たちで肯定するための形。
一方『キツツキと雨』では、ゾンビは関係を結び直すための媒介になる。
立ち止まった人間が、もう一度誰かと関わってもいいと、自分に許可を出すための存在として機能する。
向きは違う。けれど、どちらも同じ場所から始まっている。
——生きづらさの只中にいる人間を、否定しない。その一点だ。
ゾンビ映画が面白いのは、生き方の正解を提示しないところにある。
努力しろとも、立ち上がれとも言わない。
ただ、倒れても、立ち上がっても、どちらでもいいという余白を残す。
この二本の映画も、同じだ。
前に進めなくてもいい。何かを成し遂げなくてもいい。
それでも、ここに居ていい。
ゾンビが肯定していたのは、強さでも、希望でもなく、「生きている途中であること」そのものだった。
だからきっと、この二本は、同じ感覚の人のところへ届く。
うまく世界に参加できなかった人。居場所について考えたことがある人。
ゾンビ映画を、ただ怖いものとして終わらせられなかった人。
そういう人にとって、ゾンビは恐怖の象徴じゃない。
生きづらさを抱えたままでも、ここに居ていいと教えてくれる存在だ。
それを、学校という閉じた場所と、山村という閉じた場所で、それぞれの仕方で描いた。
——それだけで、この二本は、並べて語られる理由を十分に持っている。
「ゾンビ」という非日常から、ここまで確かな日常を感じてしまう映画に出会えたことで、
数多くあるゾンビ作品への見方が、少し変わってしまったように思う。
そのひとときのスリルや恐怖を味わうだけでなく、
現実を生きる僕たち自身の姿を重ねながら観ること。
そこに、生きるヒントを探してしまうこと。
ゾンビ映画には、そんなふうに寄り添って観ることのできる、もうひとつの素晴らしさが、確かにある。
これからも僕は、ゾンビ映画の中に潜んでいる人間の気配を探しながら、
静かに観続けていきたいと思う。


コメント